こんなに長くなるとは思わなかったんだけどなぁ。
まぁここからはほぼ空白期間です。
⑤中学校
この頃から、いや小学校の終わりくらいからかな。
死のうって思いました。
自分にも環境にも展望が無いし、死んだ方がいいなって。
でもまぁ、死ねませんでしたね。
小2くらいに死んだ方がいいんじゃないかって思ったときは、死への不安や恐れがあって留まりましたがね。
自分が死んだらみんな悲しむんじゃないかなって。
初めてそういう感情を持ちましたね。
家族じゃありませんよ。野球部のみんなです。
本当に良い人たちなんですよ。私には過ぎた友人たちでした。
私は劣等感を感じていましたが、向こうが私を下に見ている感じは全くしませんでした。
見下して然るべきです。
私はさんざん足を引っ張ってるし、性格も最悪です。
私は試合中も仲間がミスするのを願ってるし、何ならさっさと負けて試合数が減るのを願ってます。
自分の落ち度を減らすことしか頭にないんですよ。
それなのに応援されたり励まされたりしたら…
苦しくなっちゃうじゃないですか。
もし私が自殺したら彼らは悲しむ。責任を感じてしまうかもしれない。
彼らほど親しくなくても私には少なくない友人が居る。
クラスメート程度の関係でも自殺者が出たら悲しい気持ちになる人も居るだろう。
私は人のつながりを感じてそれを傷つけたらいけないものだと思って…
人生の目標を立てました。
人との関係を薄めていき、誰も悲しまないようになってから死のう。
その悲壮な決意は魅惑的なものでした。
いつか死ぬために生きていこうと決めたんです。
そうして私の心は穏やかになりました。
変化は緩やかなものでなければなりません。
私は中学でも野球部に進学しました。
中学から別の部活にすることも考えましたが、母にとっては進学後も野球を続けることは既定路線のように見えたのでそれに乗っかりました。
関係性はほとんど小学校から繰り越しでした。
ですが年を経て遊びの趣向が変わったこともあり、私の家に集まることもなくなりました。
私はそれを機に1人で過ごすようになりました。
本を読んだりゲームをしたり、パソコンでアニメを見たり。
アニチューブは当時は違法だと知りませんでした。ごめんなさい。
あの頃は、どんな感じだったかなぁ…
中学はかなり記憶が朧気です。辛かったという認識も無いですが記憶が飛んだということは辛かったんでしょう。
クラスではまぁそれなりに上手くやってた気がします。面子もそんなに変わりませんからね。
特別誰かと仲良くなったりはしませんでしたが、クラスメートにラノベ借りたり、余り物グループで修学旅行回ったり、ちゃんと孤立できてはいませんでしたね。
野球の腕は相変わらずでしたが母に怒られることは無くなった気がします。
兄の方に関心が向いたんでしょうね。
落ちこぼれることへの抵抗もなくなった頃ですが、同期や後輩が活躍している試合をベンチから眺めていた時に一度だけ涙を流した記憶があります。
心が完全に消えてたわけではなかったんですね。
兄について話しますか。
兄とは仲が良く小さい頃から一緒に居たような気もしますが、肝心な部分で何してたか記憶にないですね。
私が叩かれてる時に居たかなぁ…。
年は2個上で経歴は私と同じ、というか私が兄の経歴をなぞりました。
私が中1、兄が中3のとき野球部に同席していたはずですが…まあ覚えてないや。
変化があったのは兄が工業高校に進学してからですね。
少々やんちゃ、て言ってもごく普通の高校生がするようなことですよ。
コンタクトにして、髪をセットして、遊び歩いて帰りが遅くなって怒られてって感じ。
母は過干渉な人ですし父も世間体が悪くなることには怒る人です。
それで兄はその場では萎らしくするものの、シレッと同じことをする人です。
あぁ、兄は普通の人間なんだなって思いました。
私はその頃ほとんど自発的に喋りませんでした。
兄が私のことをどう思っていたのかは知りませんが、一時期古いプレステのゲームで一緒に遊んだのを覚えています。
中学の卒業式の日、私は白紙のアルバムを持って誰よりも早く帰りました。
ですが途中でクラスメートの1人に「じゃあな!」と手を振られました。
私は私が目標通りに生きられたのかよく覚えていません。
⑥高校
高校は地元の進学校に進みました。といっても自称進学校という奴です。
試験もあったはずですが学校の定期テストと同じ要領で超えましたね。
野球部の人も何人かは同じところに進みましたが、クラスも別れ多くは疎遠になりました。
入試時点で上から一桁の順位でしたが、最初の模試で校内1位でした。
中学の頃、テストでは親友が不動の1位で私が2位か3位かと言ったところで
「あいつは天才でお前は秀才。お前クラスなら頑張れば勝てる。」と誰かに言われましたね。
ムッとしましたがやっぱりそうだよなと思いました。
親友は地元から離れもっと上の高校に行ったので自動的に私が一番っていう認識でしたが、附属中からの進学組に勝ってるのでやっぱり凄かった…のかなぁ…?
会話が無かったからあんまりわかりませんね。
中学では自分の心に甘えがあったという自覚があったので、高校では強硬姿勢を取りました。
入学当初から一貫して単独行動。クラスメートが机を合わせて昼食を取っている中で、1人でさっさと食事を終えて勉強してました。
他の人の目にどう映っていたかは知りませんが嘲笑を受けるということは無かったと思います。
1年の間はほぼ1位だったためそういうキャラなのだと認識されてたのかな?
部活は全員強制加入でしたので適当に見繕いました。
といっても野球はもう辞めました。軟式から硬式に変わることもありキリのいいタイミングですしね。
やりたいことは何も思いつきませんでしたが第二体育館にサンドバッグがぶら下がっているのが目に付きました。
空手部の練習スペースにあるため、空手部に入れば自由に使えるそうです。
その高校の空手部ってのが緩い感じでしてね、人数も練習も少なくていい感じだなぁと思って入りました。
その頃私は身長も170を超え、中学から毎日していた筋トレの成果で体格も良くなっていたので苦労することはありませんでした。
毎日サンドバッグを殴ったり蹴ったりして少しだけ胸の痛みが消えた気がしました。
こう書いたら完璧なように見えますね。
綻びも幾つかあったのでそれもちゃんと書きましょう。
まずはクラスでのこと。私は最低限の関わりを志していましたが一切誰とも会話しなかったわけではありませんでした。
まぁ相手から話しかけられたからですね。
どこのクラスにも誰にでも優しい奴ってのはいるもんで私のクラスには男女一人ずつくらいいました。
そういうクラスは全体が明るくなっちゃうので必然的に私もちょっとだけ日なたに出ちゃったわけですね。
孤立を深められないことに嬉しいような苦しいような複雑な感情を抱きました。
後は部活関連。
野球部と比べたら緩すぎて本当に同じ部活動なのかって感じでしたね。
全員揃うことは稀ですしほぼ自主練みたいな日も多かったです。
なんだかんだみんなで仲良くやってましたね。私はサンドバッグと戯れてることが多かったですが。
空手部の練習場所である第二体育館は空手部、剣道部、バドミントン部、卓球部に4分割されてました。あとギャラリーにダンス同好会とテコンドー。
バドミントン部に気になる子ができました。
幼稚園と小学校が一緒で、附属中に進学して高校で再会。ロマンチックですね。
小学校高学年で割と話してたような気がしますが、あの頃私はギリギリでしたのであまり思い出せません。
あの頃と同じショートヘアで肌が綺麗で大きな目が愛らしい…気持ち悪いな私。
今思い返すとショートヘア好き過ぎですね私。そういう性癖だったのか。
少しだけ話して、それから廊下ですれ違うたびお辞儀してくれるようになりました。
私は彼女ともっと仲良くなりたい気持ちと人生の目標を遂行する決意の板挟みに遭い、非常に苦しみましたね。
もっとも彼女は1年で部を辞めちゃって疎遠になりましたがね。
家は荒れてたか、静かだったか、どうだったかな?
私は母に対しては面従腹背、というよりぞんざいな態度を取りました。
とりあえずハイハイ言っとけば勝手に納得するんだろうなぁという気で、それっぽいこと並べてました。ほぼ覚えてないです。
兄は就職が決まり来年から家を出ることになりました。
確かこの頃だったかな?兄がデュエマをまた始めて私も誘ったんですよね。
高校でなぜか小学校の頃やってたカードゲームへの熱が再燃するって現象。
それが兄の高校で起こったようですね。ちなみに私の高校でも後にちょこっと起こりました。
熱はすぐ醒めて兄はカードを置いて働きに行きましたが、私は再びカードを集めるようになりました。
自転車で20分程度でカードショップに行けたので、そこで数時間ストレージを漁って1000円程度の紙束を買って帰る。
これが私の数少ない趣味になりました。
1年目はこんなもんかな。
いや、最後に家族旅行に行きましたね。
確かUSJだかに行ったんでしたかな?
母が家族4人で何かする最後の機会だからと言って強く推し進めたのを覚えています。
父は癇癪持ちだから一緒に旅行するのは気が重かったですが、問題なく行われたんじゃなかったかな?
まぁあまり楽しかったという思い出もないですが…
2年目に移りましょう。
私の心は非常に凪いでいましたね。
大きな喜びも苦しみもないといったところです。
1年目は気を張って平日3時間休日6時間くらい勉強していましたが、だんだん勉強時間は減っていきました。
進学クラスに進んだことでメンバーもちょっと変わり、グループワークの時は協力し、それ以外の時は各自行動の気風がありました。
テストの順位もちょっと落ち、といっても一桁ですが、自分の中でまぁこんなものでいいかという気持ちが生まれました。
平日は授業を受けて、部活して、勉強して、スマホいじって眠る。
休日はカードショップに行って時間を潰す。
満ち足りた日々でした。
変化があったのは6月くらいでしたかね。
空手部の前部長から指名されて、新しい部長になったんですよ。
これが…ちょっと…まぁ面倒くさかった。
私はできればずっと自主練だけしてたい人なので場を仕切るってのは苦手なんですよね。
結果的になんだかんだ理由をつけて休んだり、特に理由も無く居なくなったりしました。
元々緩い部活ではありましたが、もうグダグダでしたね。申し訳ない。
でもその時に気づいたことがありました。
父が怒声を上げるようになったのがいつ頃だったかは覚えていません。小さい頃からそうではなかったと思うんですが…
いつからか些細なことで悪態を吐き、怒声を上げるようになりました。
父の部屋から聞こえてくる怒鳴り声は我が家では聞き流されていましたが、私はかなり神経に効いてました。
毎日何をあんなに苛立ってるんだろうなぁと思ってたんですが、部長をやり始めてわかりました。
私も同じようになったからですね。
ふとした瞬間に父親のような怒声が出たときはびっくりしました。
そうか、やりたくもないことをやってる人間はこうなるのかって…
父のことをちょっとだけわかった気がしました。
思えば父はあれほど苛立っていても私に直接罵声を浴びせたり、まして暴力を振るうことはありませんでした。
それから私は少し将来について考えるようになりました。
目標を達成するにはどこかのタイミングで失踪する必要があります。
その時期について考えるようになりました。
父とは会話したことが無いので実の所何を考えているのかは知らないのですが、どうやら母の言葉で拾えた限りでは進学を望んでいるようでした。
父がやりたくもない仕事とやりたくもない子育てをしているのは、世間体のためであると私は考えました。
恩返しなんて言い出すような恩は受けていないのですが、義理を立てようと思いました。
早い話なるべく良い大学名を取って来てやろうってことです。
1年の時は大学なんか知らないので志望大学は東大とかにしてましたが、自分の学力と相談した結果、東北大を狙いにしました。
志望大学を定めたからと言って猛勉強を始めるわけではありませんが、勉強会に出たりオープンキャンパスに行ったり準備は進めました。
母は…何言ってたか覚えてない、というよりすっかり聞き流す癖がついちゃって覚えられないんですよね。
でも自分の子が他の子より上ってことに喜ぶ人だってのは知ってます。
部長としての仕事はまぁやったりやらなかったりで引退まで乗り切りました。
大会とかの勝敗は…あんまり関心が無くて何とも…て感じですね。
2年はこんなもんか。
あぁ修学旅行もありましたね。
4泊5日は長過ぎだろと進学クラスでは不平が多かったかな?
流れるように余り物グループが結成されそのまま乗り切りましたね。
でも自由行動が許されたUSJではちゃんと一人で回りましたよ。
人生の目標に従って修行するつもりでやりましたが、思いのほか楽しかったですね。
恐るべしアミューズメントパーク。
そっからは受験勉強の日々ですね。
学校に6時くらいまで拘束されて講習を受けてたんだったかな?
カードショップ通いも封印し勉強に励んでましたが、秋が終わる頃には勉強に飽きて解禁しちゃいましたね。
あまり追い込まなくても1年からコツコツやって来た甲斐もあってセンターも8割。
滑り止めも受けずに東北大1本で大学受験を終えましたね。
両親は…たぶん喜んでたと思う。うん。
私はこれからどうしようかと悩んでましたね。後はもういつ飛ぶかだけですので。
3月くらいでしたかな?家を出る前。
私と母、親友とその母の4人で食事をしました。
お互い志望校に受かって良かったねって感じですね。
久々に会うと身長も同じくらいで…
もうあまり劣等感は感じませんでしたが、なぜか少し寂しさを感じました。
合格の報告は学校にも行きましたね。
先生方に挨拶回りして帰る時、あの子に会いました。
幼馴染でショートヘアのあの子です。
進学先を聞かれて東北大だと答えて凄いねと言われて…
あの子は横浜の大学に行くって言ってたかな?
それで終わり連絡先も知らない。
私は何がしたかったんだっけ…
そう思い始めたのはその頃でしたかね。
記憶がまだ鮮明だからか長くなっちゃいました。
一度切ります。
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