自分語りの極みたいなもんですね。
就活で聞かれる所もあるとか…。
ゾッとしますね。馬鹿正直に答えたらお祈り確実ですわ。
就活らしい就活はしないつもりですが一応整理しておきます。
①幼稚園
たぶん記憶が残ってるのはこの頃からかな…。
一番古い記憶は確か給食を残して居残りさせられてた奴ですね。
マヨネーズだかドレッシングだかでひたひたになったサラダ。
あれが苦手でね。食べるまで遊んじゃいけませんて言われたから、昼休み中そいつとにらめっこしてましたね。
結局食べたんだっけか。食べなかったんだっけか。
カレーのニンジンを残して同じようにストライキしてた女の子が居たのを覚えてます。
なぜお互いがお互いの苦手なものを食べるという解決策が浮かばないのか?
子供特有の意固地さと至らなさを感じるエピソードですね。
あの頃はどうだっけか…?
孤立してたような記憶はないような気がします。
遊び回るより絵本を読んだり一人遊びしたりする方が好きな子ではありましたが、それで仲間外れにされたりとかは無かったような…
この頃はまだまともだったんですね。
そっちの方で問題がないなら親の方も問題はありませんでした。
まだ母を負担に感じることもなく、父の怒声を聞くこともなかった頃。
一番良かった頃の記憶が曖昧なのは残念ですね。
②小学校低学年
ここから私が問題を起こし始めました。
コミュニケーション能力の不足による孤立と、それによる母の変調。
何もしなかっただけなんですがね。
学校行って、本読んで、宿題やって、特に焦りも不安も無かったと思います。
でも他の子は休み時間や放課後に友達と遊んだり習い事したりしてるわけで…
私が他の子と違うってことを先に気にし始めたのは母でしたね。
今日は何したの?誰と遊んだの?って感じで…
子供心にああ、この人はそういうのが欲しいんだなって感じたのを覚えています。
それでまあ私も頑張ろうとしたんですが…
いかんせんやり方がわからないしあんまり他人に興味も無いしで上手く行かなかった気がします。
小2くらいだったかな。初めて家に人を呼んで…
母は喜んでた、ていうか安心してたのかな。
何したかもよく覚えてないですがその一回きりでした。
スイミングスクールに入れられたのはいつ頃だったかな?
結構長く入ってた気がしますが、入学当初は入ってなくて野球部に入る前には辞めたはずなんですよね。
じゃあ1年くらいしかやってないのかな?
泳ぐのは好きじゃありませんでしたね。寒いし疲れるし。
顔を水につけて息を止める訓練あるじゃないですか。
あれで顔を離すのが早いってひどくコーチに怒られて…
泣きながら辞めさせてくれって懇願した記憶があります。
ちゃんと嫌なことは嫌だと言えるだけあの頃の方が立派だったんですね。
他には何かあるかな?
兄が1人いるんですが、兄や兄の友達と遊んでもらっていたか…
あまり記憶がありませんね。まだ自我が芽生えてなかったんでしょうね。
でもただ何となく、何となくなんですが…
自分は死んだ方がいいんじゃないかって思いましたね。
自分が今後生きてても普通になることはなくて、生きてても周囲の迷惑になるだけなんじゃないかって…
そう思ったのを覚えてます。
まあでも死ななかったわけですが。
たとえ私が死ぬべき人間であったとしても実際に死ぬ気は無いのなら、そう思い悩むことは無意味である。
思想の起こりって奴ですね。
自分の存在を肯定する最初の理屈でした。
③小学校中学年
野球部への入部、ここがターニングポイントですね。
良い方に変わったのか悪い方に変わったのかは今でも判断がつきません。
新入部員が9人、一チーム組めると盛り上がってたのを覚えてます。
この頃はみんな大きな差も無くて良かったですね。
練習にもそこまで後れを取ってはいなかったと思います。
ですがまあ子供の部活動なんてものは部活自体は二の次、重要なのはそこから形成される人間関係ですよ。
子同士の付き合い、親同士の付き合い、そういうものが発生した時期です。
私も自分がどういうことを求められて入れられたのか自覚してましたから、いろいろ頑張ってた気がします。
その大きな支えの一つがカードゲームですね。
デュエルマスターズを始めた正確な時期は憶えていません。
確か不死鳥編ですからWikiを見ると2007年ってことで小2からカード自体は持ってたのかな?
コミュニケーション能力を必要としないコミュニケーションツール。今思うとこんなに素晴らしい遊びは無いですね。
ジャンクデッキを片手に交友関係を広げた時期でした。顔も知らない友達と遊ぶなんてことは後にも先にも無いことでしたね。
「エンドレスオールデリート」ていう構築済みデッキが発売されたのが2008年の7月。
てことでその辺りから他者との関わりができたのかな?
更なる転機はバトルスピリッツの発売ですね。
パックを剝いた余りを野球部の友達に貰って、それでのめり込みました。
私はキラキラしたものが好きで、カードは眺めるのも好きなんですがね。
バトルスピリッツのカードは宝石をモチーフにした妖しい光り方をしていて、私の心を強くつかみました。
それでデュエマからバトスピに移行しました。
カードゲームの種類が変わることで属する集団が変わるってのは、今思うと不思議なものですね。
野球部の中で新たにバトスピを始めた人たちと私はよく遊ぶようになりました。
彼らは素行が良く成績も優秀で母も鼻高々でしたね。
ここまでが小3、ここからが小4。
ついでなんで初恋についてでも話しときますか。
正確な時期は憶えてないですが小3か小4だったと思います。
ショートヘアーの可愛い子だったのは憶えてるんですが顔を思い出せませんね。
歯ブラシ用のコップを差し出されて「使う?」と言われてドキドキしたことを覚えてます。
どんなシチュエーションだよ…?私の記憶違いかもしれません。
好きだなぁって思った矢先に転校しちゃって泣きましたね。
なんかもう一瞬で終わった感覚で季節も思い出せません。
話を戻しましょう。
小4になってから野球部の同学年に新入部員が来ました。
これで私の学年は10人。チームを作ると1人余りますね。
私はまだその意味には気づいていませんでした。
バトスピ関連の友人で特に仲の良い相手ができたのがその時期ですね。
いわゆる親友という奴です。
母親同士の関係も良好でインフルエンザで休校になった頃、我が家に連日来ていたのを覚えています。ホントは良くないんですけどね。
バトスピとか、スマブラとか…。私の家に友人たちで集まってよく遊んでいました。
あの頃はまだ…私は屈託なく笑っていたんでしたっけ?
悪い部分のインパクトが強過ぎて時系列が不確かですね。
私の自尊心が破壊されたのは高学年になってからでしたかな?
まぁそういうことにしておきましょう。
この頃が黄金期でした。
④小学校高学年
私を追い詰めたのは3つ。
流れを汲んだ物から始めましょう。
一つ目に、単純に能力不足が目立ってきました。
身体能力と運動神経、後はセンス不足です。こういう言い方は今でも嫌いですが。
打ってダメ、走ってダメ、守ってダメという3拍子。
私は1年遅れて入ってきた人や後輩たちとレギュラーを競り合うようになりました。
私は私が日頃仲良くしている友人たちと自分に大きな隔たりがあることを感じずにはいられませんでした。
成績の方も…私も優秀な部類ではあったのですがね。他の人も優秀だったので優越感を得られませんでした。
特に親友は体も大きく頭も良く、おまけに性格も良かったため、私は絶えず劣等感に苛まれるようになりました。
もちろんそれを表には出しませんでしたが…いや出していなかったつもりですが…
私は彼らと少し距離を置くようになりましたね。
といっても部活では離れられませんし、変わらず家で遊んだりもしていたんですが。
ちょっとクラスで浮いてる人たちと絡むようになりました。いや浮いてるというかグレてるというか、いやでも非行に走ってるわけではないというか…
小3の頃カエルやトンボ潰したり、アクションリプレイでDS改造してた人たちですね。
まぁどこか欠けた部分を感じる人たちでした。なんか苗字も途中で変わってたし。
でも一緒にいると少し心が安らぐ気もしました。私も欠けてるんでしょうね。
次に行きましょう。
二つ目は帰りの会のスピーチです。
日直は朝の会でサイコロを振り、スピーチの題材を決める。
そして帰りの会でクラスみんなの前で題材に沿って1分間話す。
私はただこれだけのことができない人間がいることを証明しました。
私は自分がどう思ったのか、どうしたいのかを話せません。
なぜかは知らない、というか脳に障害があるんだと思います。
自分の感情を他者に伝達する、共感や理解を得る、といったものがどういうことなのかわからない。方法や意義を知らない。
みんなが当たり前のようにできることが自分にはできないことを自覚しました。
地獄でしたね。今思い返しても。
教壇の上で立ち尽くす私、苛立つクラスメート、まだ30秒だと告げる女教師。
私はあの時に感じた羞恥と自責の念を生涯忘れることはないでしょう。
私がパターン構文の使い方を習得したのはその頃です。
「私の友人」というテーマであれば「私の友達の~は~をするのが好きです。昨日も一緒に~をしました。~するのは~でとても楽しいです。」のように定型文を作成し、穴埋め式に会話を行う。
人が無意識に行うことができないのであればそれらを繰り返し意識的に行い、いずれ無意識に行えるようにする。
サンプルを集め分析し、モデルケースを出力する。学習型AIみたいな挙動ですね。
最近になってツイッターで同じようなことしてたって人見かけて感心しましたね。
人見知りじゃない方のコミュ障だとみんな通る道なのかな?
これは小学生時代のうちに実を結んだかは覚えてません。私は人間なので負荷がかかり過ぎると記憶が飛ぶんですよね。
ですが今現在はかなりの水準で行えるようになったと自負しています。まあ面接の時くらいしか使いませんが…。
最後です。
まあ、母親ですよね。
私と他の子との差が明らかになるにつれ、母はおかしくなっていきました。
何が始まりだったかな?確かいつも通り全打席三振してきた日だったかな?
母は他の子は素振りとか自主練してるけどあなたはしないの?って聞いて…
私は疲れてたし若干不貞腐れてもいたのでしないと言いました。
叩かれましたね。叩いて、叫んで、狂いました。
子供の私の目には狂ったという表現が適切でしたね。
私は何が何だかよくわからないまま素振りをさせられました。
終わったら特に何事も無くお風呂に入ってご飯食べて寝ました。
母もわかりませんが私もわかりませんね。
この奇妙なやり取りはその後も続きました。
基本的に不定期でしたが試合が終わった後は確定で行われました。
私が試合中下手を打つことで母は恥をかいたんでしょうね。観戦中の保護者の間でどういうやり取りがあったのかは知りませんが。
今振り返って興味深いのが私が母に対して反感を抱かなかった点ですね。
反抗することもないし反論することもない。ただ涙を流して翌日にはケロッとしている。
一度だけ私は家庭のことについて口を滑らせたことがあります。試合があると母に叩かれるから嫌だと。
母が嫌いではなく試合が嫌という感覚なんですね。
客観的に見られる今だと不思議に思います。子供の感性って奴ですね。
母の行動は次第にエスカレートしていきました。
といってもやることはいつも変わりませんが、頻度が増えました。
試合が無くても毎日のように怒られるようになり、その理由も私の生活態度だったり成績だったりと多岐にわたるようになりました。
あの頃は私もかなりキツかったですね。
苦痛から解放される時間が睡眠と読書中だけでした。自分が無くなる瞬間だけが安らぎだという認識を持ったのもその頃ですね。
友達が遊びに来てる間はニコニコしていても二人きりになったら気が狂ったように怒り出す。
乱高下する母の情緒と自分自身の情緒に精神が擦り減っていくのを感じました。
私はそのうち、今の私という人格からは離れた存在になっていきました。
自分でもなぜそうするのかわからない。でもそうしなければならないという意識が芽生え始めました。
私はある日、隣のクラスで起こったいじめについて関わった者は手を上げろと言われたとき、気づいたら挙手していました。別に関わってないのに。
それで家に帰って1人でゲームしてたんですよね。そしたら担任から電話を受けた母親が当たり前ですが怒りだしました。
私は怒られながら自分が何を知りたかったのか気づきました。
母はその子がどれだけ苦しかったかみたいな情に訴えかける言葉を捲し立てるだけで、本来最初に聞かなければならないこと…
それが事実なのか、なぜそんなことをしたのかってのを聞かなかったんですよね。
ああこの人は私に色々言ってくるけど、私に関心は無いんだなって。
そうわかってからは何も感じなくなりました。
母のことはもうこれでいいか。
ついでですし父親のことも話しますか。
といってもほとんど言葉をかけられたこともありません。
「毎日ため息ばっかりつきやがって辛気臭い。」
この一言だけ覚えてます。
私はあまり泣きも笑いもしなくなりました。
長過ぎだな後編に続く!!
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