私は休日を利用して登山に来ていた。
澄み渡るような晴天の下、真っ白く染まった雪山の景色が良く映える。
重そうに雪を背負った常緑樹の合間を縫い、頂上へと歩を進める。
行程は順調そのものだった。
最初のうちは…
天気が崩れ始めたのは頂上付近に到達した後だった。
初めは少し日が陰ってきたかな程度だったが、瞬く間に吹雪が視界を覆った。
山の天気は崩れやすい。そんなこと飽きるほど聞いていたのに。
私は下山を急いだがすぐに道がわからなくなり、ビバークを覚悟した。
不自由な視界の中、丁度良さそうな場所を探していた時、それを見つけた。
山小屋だ。
私はこれ幸いにと中に転がり込んだのだった。
下調べの際にはこの辺りに山小屋は無かったはずだが…
不思議に思いながら小屋の中を見回す。古びてはいるが荒れてはいない。
「おい。」
不意に声をかけられ、息が止まる。
暗闇の中に誰かの気配を感じる。どうやら先客がいたようだ。
「あんたも吹雪で下りられなくなったのか。」
「ええ。残念ながら。」
姿はよく見えない。声から察するに中年の男だろうか。
同じ境遇の相手が居たことに安心感が芽生える。
「お互い難儀なものですね。」
「…そうだな。」
声が暗い。当然か。遭難しているようなものなのだから。
湿っぽい床に毛布を敷き、腰を下ろす。
バッグの中からコーヒーの入った水筒を取り出し、一口含む。冷たい。
「いつ頃からこちらに?」
「もうずいぶん前だ。」
携帯を開く。やはり圏外だ。
ラジオをつける。やかましい機械音が響き、ノイズ交じりの音声が…
「消せ!!」
「え?」
「すぐに消せ!!」
男の突然の怒声に驚き、ラジオの電源を切る。
私も男も何も喋らない。
山小屋に吹きつける雪と風の音だけが残った。
「…あの、何ですか?」
困惑と少しの苛立ちを込めて問いかける。
こういう時はちょっとでも外部の情報を得なければ…
「二人目だ。」
「は?」
「二人目の男はそれで出て行った。ラジオからそいつのお袋が危篤だってニュースが流れて、ベッドに伏せながらお前の名前を呼んでるって…」
何を言ってるんだ?
男の方を見る。相変わらず姿は見えない。
声からはふざけている感じはしない。むしろ怯えているような。
「何の話をしているんですか?」
「…最初は4人いたんだ。他の奴らはみんな出て行った。」
男が暗闇の中で大きく身じろぎするのがわかった。
「あいつは俺らのことを誘い出そうとしてる。この小屋の中から引っ張り出そうとしてるんだ。ここに居れば安心なんだ。あいつはこの中までは…」
うわごとのように男が語りだす。どうやら錯乱しているようだ。
「落ち着いてください。他にも仲間がいらっしゃったんですね。」
「ああ。」
「そして彼らは出て行った。」
「ああ。」
この吹雪の中で下山を試みるのは無謀だ。だが精神が追い詰められるうちに判断を誤ってしまったのだろう。
「不安な気持ちはわかりますがそう気を落とさずに。もしかしたら無事下山して今頃助けを呼んでくれているかもしれませんよ。」
「はっ!そんなわけないだろう!俺は見たんだ!外に出て行こうとする奴らの身体を真っ白い腕が掴んでるのを!」
…男も限界が近いようだ。
私はどうしたものかと考えあぐねていた。ラジオを聞きたいがあまり男を刺激すべきでないだろう。
2、3日閉じ込められても問題ない程度の食糧は持ってきているが、男はどうだろう。
「ところで食糧などは…」
バンッ!!
弾かれたように山小屋の扉を見る。
雪や風ではない。何かが扉にぶつかった音。
「来た!また来たんだ!お前が来たから!」
男は半狂乱になって叫び出す。
「…以前出て行ったあなたのお仲間かもしれませんよ。」
私は立ち上がり、扉に向かう。
「よせ!開けるな!お前も連れて行かれるぞ!」
「大丈夫ですよ。」
男を適当にあしらい、声をかける。
「誰かいますか?今開けます。」
やめろやめろと騒ぐ男を無視する。
「すまんな。やっぱり吹雪が酷くて進めたもんじゃないから戻って来たんだ。」
扉の向こうから誰かの声がする。男と同年代の声に感じた。
「ほら、やっぱりあなたのお仲間ですよ。」
男を振り返る。男はイヤイヤと言うように首を振っている。
「違う。そいつは違う。偽者だ。」
「そんなわけないでしょう。」
「そんなわけないだろ。」
扉の向こうの彼も同調する。
「三人目だ。そいつは決死の覚悟で出て行った。このままこの小屋の中で死ぬのを待つくらいなら山頂で死にたいと言って出て行った。帰って来るわけがない。」
男は絞り出すような声で語った。
「あの時はどうかしてたんだ。頼む、入れてくれよ。」
ふと違和感を覚える。
耳を澄ます。吹き荒ぶ雪と風の音が騒がしい。
「外はまだ吹雪いてますか?」
「ん、ああ猛吹雪だよ。」
「…そうですか。」
扉から離れ、抑えた声で話す。
「入りたければ自分で開ければいいじゃありませんか。」
「手がかじかんで動かないんだ。そっちから開けてくれよ。」
やっぱり変だ。耳が良すぎる。
外はもっと吹雪の音が大きいはずなのに、どうして小屋の中の声が聞こえているんだ。
それに声の調子もあまりに普通だ。震えてもないし、焦ってもない。
「どうした?早くしてくれないと凍えちまうよ。」
「…とっくに凍え死んでないとおかしいんだよ。」
男が呟く。
私も背筋が凍るような感覚だった。
じっと立ち尽くす。
私も、男も、扉の向こうの何者かも喋らない。
雪と風の音がうるさい。
「頼む。開けてくれ。寒いんだ。もう耐えられない。」
打って変わって泣きそうな声が扉越しに伝わる。
「頼むよ。一人は怖いんだ。中に入れてくれ。」
私はじっと目を閉じ、その時を待った。
「開けろ!開けろよ!なんで開けてくれないんだ!ふざけるな!裏切者!早く開けろよぉ…」
声はやがて怒声に変わり、最後には意味のわからない叫び声になって、途絶えた。
「あれは何なんですか?」
「知るわけないだろ。」
男がぶっきらぼうに答える。
それはそうだ。強いて何かと答えるならば山の怪だろう。もっともその名づけには何の意味もないが。
「これからどうします?」
「どうしようもない。吹雪が止めばあるいは…」
男は言葉を続けない。
自分たちはもう助からないんじゃないか。
お互い同じことを考えていることは容易に想像できた。
コンッコンッ。
軽いノックの音が響く。
「コウ君、聞こえる?」
若い女の声だ。聞き慣れた…
「恋人か?」
男の問いに頷く。
「コウ君、聞こえてるんでしょ?」
耳を塞ぎ、その時を待つ。
「一人目はこれでやられたんだ。」
男の呟きが聞こえる。
「ねぇ、コウ君。お願いだから…」
聞きたくない。なんて残酷なことをするんだ。
「お願いだから目を開けてよ。」
耳から手を離し、扉へと目を向ける。
「だから登山なんてやってほしくなかったんだよ。いつまで待っても帰って来なくて…病院から連絡が来たとき私がどんな気持ちだったかわかる?」
何…何を言ってるんだ…?
「目覚めたら絶対ひっぱたくからね。このまま死んじゃったら絶対許さないからね。だから…」
「聞くな!!」
男が叫ぶ。
「耳を貸すな!あいつはお前を騙そうとしてる!」
あの声は本物なのではないか。私は病室のベッドで眠っていて、今見えているのは幻覚。
いや、山の怪が見せた幻影だ。
「あれは偽者だ!!」
叫ぶ男を見つめながら後ずさる。少しずつ、少しずつ扉の方へ。
「あなたは…」
男の姿はまだ見えない。最初からずっと闇の中だ。
「待て!待ってくれ!お前が行ったら俺はまた一人になってしまう…一人は怖いんだ…」
扉の向こうの何者かは力尽くでは中に入って来れない。目の前の男も力尽くでは外に出ていくのを止められない。
人ならざる者には人ならざる者のルールがあり、それを破ることはできない。
何故だかそんな考えが頭に浮かんだ。
後ろ手が扉に触れる。私はそのまま振り返って扉を開けた。
真っ白い腕が私の眼前に伸びる。
判断を間違えた。
とっさに閉じてしまった目を開く。
あまりの眩しさに目を細める。
目の前に広がる光景は病室の天井…ではなかった。
辺り一面に広がる雪景色。見上げると青空が広がっていた。
「お前も俺を置いて行くのか…」
男の声がした。
振り向いた先に山小屋など無かった。
どこからどこまでが幻影だったのか。
私は麓に向かって歩き出した。
踏みしめる雪は固く、足取りは軽かった。
振り返って山頂を見上げる。
澄み渡るような晴天の下、真っ白く染まった雪山の景色が良く映える。
山の神は女性だと聞いたことがある。あの白い腕は女性のものだったような気がした。
私は山頂に向かって深々と頭を下げた。
…おかしい。
さっきも同じ場所を通った。
麓に向かって下っているはずがいつの間にか上に戻っている。
振り返って山頂を見上げる。
山の神は女…
女とはそういう物か。
【解説】
コウ先生用の怪談。想定より長くなっちゃった。
ありきたりな展開でもここまで詰め込めば逆に新鮮だろ。
誰が敵で誰が味方かわからなくなるけど、結局全員敵だったていうオチ。
小屋から出られないのと山から出られないの。どっちがマシかな?