「2年1組、小春六花さん。」
アナウンスに呼ばれ、六花は顔を上げた。
ここは体育館で、今は投票前の最後の演説の時間だ。そのことを思い出した。
壇上に立ち、並んだ全校生徒を見下ろす。
顔を上げられない生徒たちも多い。きっと集会の参加者だろう。
頭に包帯を巻いている彼は土曜日に救急車で運ばれていった人だ。誰よりもいっそう俯いている。
休日に集会を開き、他の生徒に対してデモをするのしないので争って怪我人を出した。小春六花とその支持者に対する印象はもう取り返しのつかないところまで落ちていた。
集会の参加者であったことを必死に隠そうとしている者たちも大勢いるだろう。もう投票を呼びかけるような段階にはない。
いったい何が言えるというのだろうか。
六花は惚けた顔のままただ立っていた。
とても話せるような状態ではない。そう判断した先生たちが六花を壇上から降ろすために歩き出した時、六花の口が開いた。
「私は四人家族でした。」
「父と、母と、兄が一人。裕福でも貧乏でもない、ごく普通の家庭だったと思います。」
六花が何の話をし始めたのかわからず、誰もが呆気に取られていた。下を向いていた生徒たちも思わず顔を上げた。
「中学に上がった頃、家族の仲が悪くなりました。高校生になった兄の態度が荒々しくなっていったんです。いわゆる反抗期というものです。父はそんな兄を煙たがり、母に何とかするようにと押しつけました。母は父に対しても兄に対しても強く出ることができず、ただ悲しそうにしていました。」
普段の朗らかで能天気な姿とも、集会での怒りに流された姿とも違う。初めて見せる無機質な姿だった。
「よくあることです。」
冷たくそう言った。
「中学での新しいクラスはあまり居心地が良くありませんでした。女王様気質な子がいて、その子の機嫌に合わせて他の生徒たちで嫌がらせをしたりされたりを繰り返してたんです。先生は私たちのそんな様子を知りながらも何もすることはありませんでした。面倒だと思っていたんでしょう。」
誰も六花の話についていけていなかったが、その異様な雰囲気に押されて聞き入っていた。
「これもよくあることです。」
再び冷たく言った。
「私は思ってたんです。兄は両親のことをもっと気遣えばいいのにって。父はきちんと兄を叱ればいいのにって。母は言いたいことがあるなら言えばいいのにって。あの子はいちいち誰が嫌いとか言わなければいいのにって。みんなはあの子の言うことなんて聞かなければいいのにって。先生は問題が起こったら注意して指導すればいいのにって。誰かがちゃんとしてくれればいいのにって。」
目を伏せ淡々と六花は言葉を並べる。
「そんな時にふと気づいたんです。誰かなんていないんだって。」
本当に今気づいたかのように六花が顔を上げる。
「自分しかいないんだって。」
「全部自分がするしかないんです。私がそうした方がいいって思うんだから私がそうするんです。笑顔で、涙で、怒りで、声で言葉で行動で態度で人を動かして在るべき形に戻すんです。それ以外に方法なんて無いんですよ。」
六花の声が力強く、それでいて悲痛に響く。
「兄と笑顔で話して不満や不安に寄り添いました。兄に非がある時は私が叱って喧嘩しました。父に涙で訴え兄と母ときちんと向き合うように促しました。母からどう思ってるかを聞き出して兄と父との仲を取り持ちました。」
「あの子の言葉を茶化してみんなが真剣に受け取らないようにしました。腹を立てられたら怒り返してぶつかりました。みんなと話を通してお互いに嫌がらせをさせないようにしました。他の先生も巻き込んで問題が起こっても先生が無視できないようにしました。」
「時間はかかりましたがいつしか、家もクラスも和やかな空気が流れるようになりました。家族はお互いの気持ちをさらけ出せるようになり、兄の大学合格が決まった時はみんなでお祝いしました。高飛車だった彼女は高飛車なままクラスに受け入れられ、私とは今も連絡を取り合う友人です。間に私が挟まって適切な対応ができれば、適切な関係にできる。それが私がリーダーを、生徒会長を目指したきっかけです。」
六花は少し懐かしそうに笑い、すぐに笑みを消して言葉を続けた。
「相手の心を読んで周囲の関係性を理解して自分が望む方向に誘導するんです。個を見て全体を見て個が全体に与える影響と全体が個に与える影響を見て変化を予測するんです。人を導くっていうのはそういうことなんですよ。」
聴衆はそこまで聞いてようやく、六花が何のことを言いたいのかわかった。
「きっとその最終的な到達点は、指先で蟻を弄ぶ人だったのかもしれません。」
六花は自嘲するように締めくくった。
ずん子は六花と初めて会った頃にした話を思い出す。
六花が今話したようなことをあの頃にも聞いた。全部自分がするしかない。同じ結論に達していた相手だったから勝負を挑んだのだ。
「最初からそう言ってれば良かったのに。」
ずん子の呟きは誰にも聞こえなかった。
「その初心を全く活かすことができませんでした。リーダーを志すのなら人よりもっと多くのものを見て、多くのことを考えていなければならなかったのに。自分の感情だけでいっぱいっぱいになり、周りが見えていませんでした。」
六花が毅然とした顔と声で話す。
「ついて来てくれた人たちを危険に晒しました。怪我をさせました。先生方と救急隊の方々にご迷惑をおかけしました。私を推薦してくれた花梨先輩の顔に泥を塗りました。対立候補のずん子さんに何度も酷い言葉を投げかけました。他の多くの生徒の皆さんに不安な思いや不快な思いをさせました。」
「全て私の責任です。申し訳ありませんでした。」
そう言って六花は深々と頭を下げた。
全てが六花のせいであるとは誰も思っていない。当事者である集会の参加者も、無責任に煽った者も、火の粉が飛ばないようにと距離を置いていた者もいる。それでも六花は全部自分がどうにかするべきだったと言うのだろう。
もう一度チャンスをくださいと続けていれば、投票する者も多かったであろう潔い謝罪だった。
しかし六花は何も言わず、そのまま壇上を降りた。
拍手は起こらず、静寂のまま彼女は見送られた。
「2年2組、東北ずん子さん。」
再びアナウンスが流れ、今度はずん子が壇上に登る。
勘のいい生徒たちは六花の自滅がずん子の策略なのではないかと気づいていた。直接的には何一つ手を下さず、行動誘導だけでそれを為したことを知る者はほとんどいなかったが。
六花の敗北が確実である以上、ずん子の演説は勝利宣言になる。生徒たちは固唾をのんで見守っていた。
「私が生徒会会長に立候補したのは、この学校をより規律と規範を重んじた学校にするためです。近年、自由や個性が強調される一方で基本的な生活態度や礼節が軽視されつつあると感じています。」
ずん子が話し始める。
声や話し方こそ聞く者を惹きつける流麗なものだったが、これは学校新聞に載った彼女の最初の公約そのままだ。
こいつマジか…!
聴衆は唖然としていた。
生徒だけじゃなく先生たちも見ている中で蟻がどうこうなんて言えるわけがない。無難な公約を掲げるのは当たり前のことだ。
だがそれでも六花があの内容に理解を示したにも関わらず、当のずん子が梯子を下ろすのはどうなのだろうか。まるで相手にならなかった、私が誠意を向ける必要もないという意思表示ではないか。
反感で動いた人間の末路を知っているからこそ誰も言葉にも行動にも出さない。しかし、ずん子への畏怖はあったが、畏敬は残らなかった。
「自由は規律の上に成り立つものです。今こそ原点に立ち返り、互いに節度を守ることで落ち着いた学びの場を築いていきます。」
ずん子はただ公約を引き伸ばしただけの当たり障りのない演説を終えた。
最後に一言だけ、冗談めかした公約を付け加えて。
「とりあえずまずは、生徒会選挙における集会について規則を設けます。」
最後の候補者演説を聞いた生徒たちはそれぞれの教室に帰った後、配られた投票用紙に投票したい候補者の氏名を記載する。
投票用紙は担任教師に集められ、選挙管理委員会へと渡されて集計作業が行われる。結果が発表されるのは翌日だ。
例年であれば候補者たちは当選発表を期待と不安が入り混じった感情で心待ちにするものだが、今回に限ってはそうではない。
勝敗がほぼ決まっている以前に、六花は土曜日に起こった出来事について放課後には聴取を受けるのだ。当選発表を待たずして何らかの処分が下る可能性もある。
「六花。」
「花梨先輩。」
審判の時を待っている六花に、花梨が声をかける。最後に話したのは自分の力で選挙に挑むのを決めた時なので、実に1か月ぶりの会話になる。
「何一つ褒めるところの無い、最低最悪の負け方だったわ。」
「いやあ面目ない。」
容赦のない花梨の言葉に六花はつい笑う。
自分でもそう思う。ほんのちょっとでも賢明な判断ができていれば、こんなことにはならなかった。
「ずん子に踊らされたわね。」
「私が勝手に踊ったんです。ずん子さんはリーダーの資質を問われる状況を用意しただけで、私がリーダーの資質が無いことを露呈したんですよ。」
「恨んではないのね。」
「恨めるはずもありません。正攻法でも叩き潰せる私程度の相手に、力量しだいで逆転できるチャンスをくれていたんですから。」
本心だった。六花がほんのちょっとでもずん子の予想を上回れば、ずん子はあのまま惨敗していた。それほど綱渡りの作戦だったはずだ。
「私はちょっと違うと思うわ。ずん子は本気であなたに勝ちに行ったのよ。」
花梨が遠くを見つめながら語り出す。
「選挙で一番大きい層はね、選挙なんてどうでもいいって人たちなの。どうでもいいからテキトーに決める。あなた達がどれだけ必死になろうとね。」
花梨が冷めた目でこぼす。生徒会会長だった時は見せなかった態度だった。
「私の場合、どうでもいい人たちの決め手になったのは生徒会役員っていう肩書きとこの美貌だったわ。」
「自分で言いますか。」
「そういうものなの。私に投票してくれた人たちもほとんど私の公約を覚えてないわ。あなたもそうでしょ。」
図星だった。当たり障りのない内容だった気もするが、記憶にないくらい決め手ではない情報だったのだろう。
「ずん子が一番避けたかったのは、そういう不確かな要因で勝敗が分かれることだった。候補者が少ないほど同じクラスとか同じ部活とかのわかりやすい決め手が減ってく。今回の一騎打ちでは大半の生徒があなたのこともずん子のことも知らず、最後は運の勝負になる可能性があったわ。」
「…だから火をつけた。」
「普通の選挙活動じゃ生徒に火がつかないことを知っていた。好きや嫌いといった感情が吹き荒れる泥沼の戦場にすることで、とにかく関心を持つ生徒を増やしたのよ。人の心を利用した戦い方は一見不確実なようで、最も確かな勝ち筋だった。」
「人に心なんて無いみたいですけどね。」
「そうね、あの子ほど見通せるならもう単なる習性なのでしょうね。ただそれは誰よりも人の心と真摯に向き合った結果なんだと思うわ。」
六花は思い出す。中学の頃、人の心の動きを理屈で捉えていた時は周囲の人間関係を改善することができた。
そして今は、観察と思考を怠ったツケを払わされようとしている。
「敵わないや。」
六花は呟く。
もう時間だ。行かなければならない。
「何一つ褒めるところが無いって言ったけど、最後の謝罪だけは良かったわ。次があるなら頑張りなさい。」
「なんて言い草だ。」
どこまでも辛辣な花梨に苦笑する。六花の心が折れていないことを知っているからこそ言えることなのだろう。
「戻ってきますよ。すぐにね。」
六花はそう言い残して校長室に向かった。
翌日、学校新聞が張られていた場所には簡素な当選発表の用紙が張られていた。
生徒会会長は東北ずん子。
ずん子はちらりとそれを見ると、さも当然というように立ち去った。
激動の生徒会選挙の幕引きとしては、呆気ないものだった。
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