怪談っぽい何か。
次の動画用。
『不可触』
近づいちゃいけないと言われていたその家に入ったのは好奇心からだった。
当時小学生だった私たち数人。学校終わりの夕暮れ時のことだった。
足を踏み入れた瞬間から私は嫌な感じがしていた。荒れている、汚れている以上の何かを感じ取っていた。
他のみんなは気づかなかったようで、はしゃぎながら家を物色していた。
彼らに混じるのは気が引け、私は玄関の方に突っ立って辺りを見回していた。
玄関脇に置かれた電話の隣、何かカラフルなものがあった。古いアニメのキーホルダーのようだ。
この家でも昔は家族が暮らしていたことが思い浮かび、申し訳ない気持ちになる。
みんなにもう帰ろうと声をかけようとしたとき、階段から物音がした。
彼らに混じるのは気が引け、私は玄関の方に突っ立って辺りを見回していた。
玄関脇に置かれた電話の隣、何かカラフルなものがあった。古いアニメのキーホルダーのようだ。
この家でも昔は家族が暮らしていたことが思い浮かび、申し訳ない気持ちになる。
みんなにもう帰ろうと声をかけようとしたとき、階段から物音がした。
背筋がぞっとした。みんなはまだ1階を見回っているはずだった。
階段からは物音が続いている。誰かが下りてきているのだ。
黒ずんだ素足が見えた時、私は悲鳴を上げて逃げ出した。
私の悲鳴に驚いて騒ぐみんなの声に混じって、何かの叫び声が聞こえた。
あー、あーという調子の外れた甲高い不気味な声だった。
振り返ると私と同じように逃げ出しているみんなの姿が見えた。そして開け放たれた玄関の先、家の中で大きな影が揺れていた。
そいつと目が合ったような気がして私はそのまま家に逃げ帰ることにした。
人通りのないあぜ道を駆ける。後ろからあー、あーとあいつの声が聞こえていた。追ってきているのだ。
私は泣きそうになるのを必死にこらえて走った。恐怖と後悔でいっぱいだった。
やっとの思いで家までたどり着くと、大急ぎで中に入り鍵をかけた。
磨りガラス越しにその何かの影が見える。
そいつはあー、あーと苦しげに呻きながら扉を叩いていた。
私は動けずにじっと扉を見つめていた。壊されてそいつが入って来るんじゃないかと思うと気が気でなかった。
何時間くらい経っただろうか。
玄関の向こうから怒鳴り声がしてあー、あーという声は遠ざかっていった。
鍵の回る音がして、扉が開かれる。両親だった。
母は今にも泣き出しそうな顔をしていて父は今にも怒り出しそうな顔をしていた。
「お前、あそこに行ったのか。」
父が低い声で問いかける。
「他に行ったのは誰だ。お前だけじゃないだろ。」
今まで見たことのない父の剣幕に隠し事なんてできなかった。私はあの家に行った全員の名前を言った。
父はどこかに電話し始め、私は母に2階の自室に連れて行かれた。
その日はご飯もお風呂もなく、私は布団にくるまって震えていた。
どこからかあー、あーという声が聞こえていた。
次の日の朝、父と母が部屋にやって来た。
母は泣きはらした顔をしていて父は神妙な顔をしていた。
「いいか。お前をこれからおじいちゃんたちの所まで連れて行く。車に乗るまで何も見えていないし聞こえていない振りをしろ。」
何が起こっているのかはわからなかったが、ただ頷くことしかできなかった。
タオルケットを頭から被ったまま家の外へ出る。途端にあー、あーという声が聞こえてきた。近い。
母に連れられて車の後部座席に乗り込む。遅れて父が運転席に乗り込んでくる音がした。
あの声はまだ聞こえていた。車をバンバンと叩く音も聞こえる。
車が走り出すとすぐに声と音は聞こえなくなった。
安心して顔を上げる。車のバックミラーに映るそいつの姿はすぐに小さくなって見えなくなった。
結局私はそのまま祖父母の元で暮らすことになった。
学校も転校することになり、一緒にあの家に行ったみんなとはあれから一度も会っていない。
父の話によると彼らには何事もなかったそうだが、実際のところはわからない。
父と母は数年の間は行ったり来たりしていたが、今はもう祖父母の元に腰を落ち着けていた。
大人になり私がこの町に帰ってきた時には両親と暮らした家は引き払われていた。
数年ぶりに懐かしいあぜ道を歩く。目的地はあの近づいちゃいけない家だ。
当時はわからなかった。
なぜあの家に近づいてはいけないのか。
私を追いかけ回したあいつは何だったのか。
今ならわかる。触れてはならない存在の正体が。
あの場所は更地になっていた。唯一の住人が死んでからすぐに取り壊されたそうだ。その痕跡を消し去るように。
死因は餓死だったそうだ。何かの事故で足を折ってから、治療を受けることもできずにそのまま亡くなったらしい。彼には助けの求め方もわからなかったのだ。
あの時持って行ってしまったキーホルダーを地面に供える。きっと家族との思い出の品だったのだろう。
「ごめんなさい…」
私はようやく言うべき言葉を口にできた。
『黒猫』
私は幼い頃施設で暮らしていた。いわゆる孤児というものだろう。
父の顔は知らない。母が私を育てていたが、ある日から帰って来なくなった。
ひもじさと寂しさに耐えていると知らない人たちがやって来て、私を施設に連れて行った。
施設での生活は悪くなかった。身の回りの世話はやってくれたし、私と同じような境遇の仲間たちも大勢いた。
不安がってる者たちも居たが、多くはこの場所を居心地よく感じているようだった。私も毎日の食事と寝床の心配が無くなっただけで充分だった。
私たちの世話をしてくれる人たちの顔は覚えたが、施設にはそれ以外にもよくわからない人たちが出入りしていた。年齢や性別、人数もバラバラでどういった目的で施設を訪れているのかはわからなかった。
私は彼らのことが嫌いだった。ジロジロとこちらを不躾に眺めてくる視線がとても不快だった。急に体を触られそうになった時さえある。
だがなんとなく彼らに逆らってはいけないということは理解していた。
時々仲間の中から彼らに連れられて施設を出て行く者がいた。施設で働いている人たちの話を盗み聞くと、どうやら今後は彼らの家で暮らすらしい。
今更また知らない人の家で暮らすのは嫌だった。だけどそうも言っていられないのではという疑念もあった。
施設に居るのは子供だけだ。長く暮らした者たちは皆どこかしらに連れて行かれた。
ずっと居ていい場所では無いのだろう。誰にも引き取られなかった場合はどうなるのか。それを考えると母が帰って来なくなった頃のような焦りと不安を感じた。
自分の立場を弁えて大人しくしていたことが好意的に映ったのか、私はある日施設から連れ出された。
相手は女の人だった。若く見えたが目を凝らすと化粧の下の皺は思いの外深かった。
私は一抹の不安を胸に新たな住み家へと旅立った。
女との暮らしは結論から言って最悪だった。
最初こそ私を必要以上に可愛がりあれこれと買い与えていた女は一月も経たずに私への関心を失った。
私の世話をすることは無くなり、食事も時々しか貰えなくなった。そのことに不満を訴えると無言でお腹を蹴られた。
女は夜遅くまで帰って来ず、その間私は部屋の中にずっと閉じ込められていた。女はいつも酔っ払っていて帰るとすぐにベッドに寝転がっていびきを立てていた。
幼少期のひもじさと寂しさを再び噛み締める日々だった。
だがそんな生活にも救いはあった。
気に入らないことがあった時、来客があった時、女は私をベランダに追い出した。
そのまま逃げてしまいたかったが地面ははるか遠く飛び降りる気にはならない。
私がベランダで泣いていると隣のベランダから声がかかった。
「大丈夫かい?」
私はその声に導かれるように隣のベランダへと乗り移り、彼の部屋を訪ねた。
彼の部屋は整然としており、棚には分厚い本がいくつも並べられていた。興味深そうに眺めていた私を彼は突然抱きかかえるとお風呂場に連れて行った。
びっくりして思わず爪を立ててしまった私の頭を優しく撫で、心配ないと囁く彼。私は暴れたことが恥ずかしくなってじっとしていた。
体を洗われ、ドライヤーをかけられる。施設に居た頃にもやってもらったことがある。
私がうっとりしていると彼が頭を撫でてきた。
彼の手が徐々に下がっていく。首筋、肩、背中、お腹。
彼を見つめる。彼は穏やかな微笑を浮かべていた。
私は目を閉じ、されるがままにしていた。
それから私は彼の元へ足しげく通うようになった。
季節が夏に変わりベランダへ続く窓が開け放たれたままになったことで、隣室への移動は容易になった。
彼は私が望んだ全てを与えてくれた。清潔な環境、きれいな体、美味しい食事、そして愛情。
私はいつしか彼と一緒に暮らしたいと望むようになった。
ある日、玄関を出たところで女が誰かと揉めていた。声は聞こえないが相手はどうやら彼のようだ。
勝手に私の世話をしていたことがばれたのだ。女は一体どういう神経をしているのか彼に怒りの言葉をぶつけていた。
このままではまずい。彼との仲を引き裂かれることは私にとって精神的にも生活的にも許容できないことだった。
私は決断が迫られていることを理解した。
女はその日も酔って帰って来た。
仰向けになって眠る女に気配を殺して近づく。傍らのクッションを女の口と鼻が塞がれるように乗せて押さえつける。
ここからが勝負だ。きっと暴れられるだろうが何とか窒息死するまで持ちこたえなければならない。
もし跳ね除けられたらベランダに誘い込んで転落死を狙おうと考えていると、女が大きく跳ねた。クッションを押さえつける腕に緊張が走る。
だがそれからいつまで待っても予想していたような激しい抵抗は起こらなかった。
数十分が過ぎたことを確認してクッションをどかす。女は息をしていない。
こんなに呆気ないはずがないと思ってもう1度クッションを顔に乗せ、押さえつけるというより乗っかった。女は何の反応も示さなかった。
朝が来るまで私はそうしていた。
隣の部屋からの物音で彼の起床に気づき、クッションから降りる。
呼吸音は聞こえない。どうやら本当に死んだようだ。
私は実に清々しい気分になってベランダに飛び出し隣の部屋に移った。
私の姿を見つけた彼は少し逡巡していたが、窓を開けて私を招き入れた。
「ダメだって言われてるんだけどね。」
もうそんなことを言う奴はいない。苦笑いを浮かべる彼に目一杯ほおずりする。
「今日はずいぶんご機嫌だね。」
私は彼の問いかけに応えるようにニャーと鳴いた。
『捨六』
「いたか!?」
「いや、まだ見つからない!」
吹雪の中、村の男たちが総出で捜索に当たる。
捨六が村を飛び出してすぐに皆で追いかけた。まだ遠くには行っていないはずだ。
この雪だ。身動きが取れなくなればすぐに埋もれてしまう。そうしたら春まで見つけることはできなくなるだろう。
太一は歯を強く嚙み締める。俺のせいだ。俺が不用意にあんなことを言ったから。
捨六はどこぞの農村から流れついた十五、六の子供だ。要らない六男坊、口減らしのために村から追い出されたのだろう。
この寒村では人手が足りていなかったこともあり、村全体で面倒を見ていた。捨六は手先が器用で、狩猟道具の手入れに重宝していた。
太一は捨六をよく可愛がり、狩りに連れていくこともあった。だが捨六は所詮余所者、村人たちからはやはり一線を引かれていた。捨六がそのことに気づいていると知っていたのに。
地面に転がる黒い影に気づく。
「捨六!」
とっさに大声をかける。
影はビクリと体を震わせ、白い顔をこちらに向けた。捨六だ。
「探したんだぞ。さあ一緒に帰ろう。」
大股で捨六に歩み寄る。捨六は首を振りながら後ずさった。
「大丈夫だ。もう心配いらない。お前は勘違いしてるんだ。」
不安を拭うように優しく笑いかける。
「お前は村の一員だ。そんなことあるもんか。そうだ、春になったら俺の銃を撃たせてやる。お前撃ちたがってたろう。」
座り込んでしまった捨六に手を差し伸べる。
捨六は恐る恐る手を差し出し、太一の手を掴んだ。
太一はそのまま捨六を引き寄せると、もう片方の手に握っていた鉈で捨六の頭を叩き割った。
一瞬の出来事で捨六には何が起こったかわからなかっただろう。
動かなくなった捨六を引きずりながら太一は村へと急ぐ。
今年の冬はとりわけ厳しく、獣一匹鳥一羽見つからなかった。だから仕方ないのだ。
春はまだ遠い。