2022年9月27日火曜日

何かこう…いい感じにするしかなさそう

あうあうあー

やっぱりダメでした。

あの楽し気な空気で今更そんなこと言い出せるわけないですわ。

就活しつつ院試の二次募集も受けるとかテキトーなこと言っちゃいました。

親も教授もキャリアセンターの人もあんまり気にしないもんですね。空白の大学生活をどうやってごまかせってんだ。

まぁ結局何も決められない以上流されていくしかないですね。やってみたけどダメでしたってスタンスで適正帯まで落ちれれば安心なんですがね。

ウジウジしててもしょうがないので対策を練りますか。

まず問題その1。私のコミュニケーション能力。

これは意外となんとかなりそうってのが所感。

研究のこととかバイトのこととか。強みをアピールするみたいなのは物は言い様口先三寸でごまかせるか。

キャリセンやマイナビの人と喋った感じ、知らない人だと割と話せますね。私は親しい人以外とは仲良くなれるんだ。

問題その2。謎の空白期間。

大学入学後、部活もサークルもバイトもボランティアもしないで人との関わりを断った2年間。しかしなぜか講義には出てきっちり進級している。

意味わからんよな。進級してるって部分だけ取れば問題ない大学生活なんだけどな。

この時期以外はごまかせる。勉強や部活、バイトや研究があるから。

ここをどうするかが肝だな。嘘で取り繕うか正直に話すか。

嘘で取り繕うパターン。

入学当初はバイトを探すつもりだったが勉強について行くのが難しく断念。夏休みは運転免許取得のため帰省していた。

後期も学業に専念。冬休みからまたバイト先を探していたがコロナの影響で自粛ムードに。

それから1年はオンライン授業。怠惰な生活を送ってたことは隠さなくてもいいか。

2年の冬にバイトを始め、かれこれ1年半以上続いている。

まぁ行けるっちゃ行けるか。好印象ではないけど悪印象でもないかなって感じ。

正直に話すパターン。

自殺するつもりだった…てまではさすがに言わんか。

大学に合格することが目的だった。大学生活に関しては何も考えてなかった。

勉強して成績優秀であることにアイデンティティの全てをかけていた。

一つのことに努力することで他のことから逃げてきた。

それに気づいて大学生活に期待を寄せる他の学生たちとは一緒に居られなくなった。

でも学業だけは疎かにできず、表面上は問題ない学生生活を送った。

バイトを始めたり動画投稿を始めたりして少しだけ自信がついて、研究にも打ち込むようになった。

で院試に落ちた。

間抜けだなぁ。典型的と言うか何と言うか…成績は良いけど頭は良くない人ですね。

ま、基本は嘘で取り繕って突っ込まれたらぶちまけてやりますか。

問題その3。時間足りなすぎ問題。

研究室の方はもう1回栽培やって卒論発表。

就活の方はセミナー受けて適性検査やって2回くらい面接して内定。

ぶっちゃけスケジュール的に無理…無理だよね?

前から思ってたけど在学中に就職活動するのって絶対おかしいよね。こんなの本当に成立してるのか?

1年の頃から講義や勉強をこなしつつ部活やサークルにも打ち込んで、休日は友達と遊んだり課外活動を行ったり…みたいなことしてたらできるようになってたのかな?

普通の人ってすごいなぁ…ってしみじみ思いますね。

どっちが優先かって言ったら、教授は就活の方優先していいって言ってましたけど、私的には研究ですよね。

中途半端になってる方をきっちり終わらせるのが優先。間違いない。

まぁ就活はやるだけやって内定が出たらそこへ。出なかったらレッツ非正規労働ですね。

研究生として大学に残るっていう選択肢もあるみたいだけど…それはいいでしょう。やる気ないのにいつまでも居てもしょうがないですしね。

方針は固まりましたね。何とかなりそうっちゃ何とかなりそう。

なのになんでこんなに空しいんでしょうね。

こんなこといつまでする気なのかって感じ。

人生で一度くらい本音で語る場面があったっていいんじゃないかって思うのは贅沢なんでしょうかね。

無気力な日が続いて動画編集はおろか研究や就活の方も滞ってますが、そのうち復調させますよ。どうせ死なないんだろうし。

夏が終わってまた肌寒くなってきちゃいましたねぇ。冬場は神経がざわついちゃっていけない。

春が待ち遠しいですね。

長文駄文失礼しました。


2022年9月18日日曜日

自分史3

さすがにこれで最後かな。


⑦大学

大学の建物からは少し離れた山頂の町に住み、地下鉄で通うことにしました。

母がここでいいんじゃないかって言って、私もじゃあここでいいかって言って決まりましたね。

家具や家電は母が勧めるままに買いました。他のことも全部言われるがまま。

私は迷いを断ち切るために思考を止めました。

いつか死ぬために生きる。

かつてのように悲壮感に酔うことはできませんでしたが、その思いは変わらず私を穏やかにさせてくれました。

大学では完全に人との関わりを消しに行きました。

部活にもサークルにも入らず、ただ講義には出席する。

先のことはどうしようと思ってたんでしたっけ?

何も考えてはなかったか。

平日は講義を受け、課題をして、自炊して、スマホをいじって眠る。

休日はカードショップに行って時間を潰す。

あるいは私の理想とはそういうものなのかもしれません。

1年の夏休みは免許を取るために実家で過ごしました。

親元で過ごすことは苦痛だった。

いや苦痛であってほしかったのかもしれません。

父も母も年を取り穏やかになっていきました。

私は小学生時代の父母のイメージを拭えないためそのギャップに心を乱されました。

思えば母に怒られることが無くなってもう6年以上経ちます。

父の怒声も少なくなり、神経を揺さぶりもしなくなりました。

いつまでも私だけが変わらずにいる。

いつまでも私だけがあの頃のまま。

苦しくないことが苦しいという感覚を初めて知りました。

遠くへ行きたい。

どこか遠くの小さな町で、古びた部屋を借りて、単調な仕事に就いて、簡素な暮らしをする。

その想像が私の頭を占めるようになりました。

講義や実験が忙しくなり、自由な時間が減ったのは幸いだったのかもしれません。

私は忙しさを理由に自分のことや今後のことを考えるのを止められました。

冬休みに入り、私はバイト先を探し始めました。

単純に暇だったのと、アルバイトくらいはしておかないと就活で話せることが無いからですね。就職する気なのかって感じですが。

ですが周辺には募集が少なく、なかなか成果を上げられませんでした。

そうこうしてるうちにコロナが流行り始め、私はそれを言い訳に怠惰な暮らしに逃げ込みました。

オンライン授業に移行したこともあり、私はその1年をほとんど人と関わらずに過ごすことができました。

パソコンで動画を流し、スマホをいじって、カードを眺める。

とても楽でした。問題を先送りにして耽る娯楽ほど魅力的なものはありません。

子供の頃の私にとって人生のスキップ機能は読書と睡眠でしたが、文明の利器を存分に使うことで人生の全てをスキップすることができました。

この頃の記憶はほぼありません。

変調を感じたのは秋が終わり、冬が始まろうとしていた頃です。

私は眠れなくなりました。

本来の目的も忘れてのうのうと生き続け、いったい何をしているのかと正気に戻り始めたのでしょう。

まぁあの状態が正気なのかは疑わしい限りですが。

日中はこれまで通り怠惰な暮らしを続けていても、夜になると罪悪感と自罰心に苛まれるようになりました。

夜中はじっと虚空を睨み、明け方に少し眠る。

そんな生活が冬の間は続きました。

二度目の冬休み、私は再びバイト先を探し始めました。

夜の時間を埋める何かが無いとおかしくなると思ったからです。

幸い近所のコンビニに募集があり、そこで働かせてもらえることになりました。

夜勤を希望したのですが、初めての人には任せられないということで夕勤に入ることになりました。

バイトは大変でした。すべてが初めてということもありますし、1年間ロクに喋らなかったツケも回ってきました。

しかし職場の人間関係にも恵まれ、私はちょっとずつ一人前のコンビニ店員になっていきました。と言っても単純な接客清掃品出しといった業務だけですが。

不眠はしばらく続きましたが、春になって暖かくなるにつれてちょっとずつ眠れるようになっていきました。

3年生からは対面授業が再開されました。去年はオンラインで学生実験を行って、まぁ絶対問題があったんだろうなぁって思います。

久々に大学に通わなければいけない上にグループワークが中心となるため、私の気は重かったですね。

でも、思ってたのと違いました。

私はさほど苦労することもなく周囲と溶け込み、時には笑顔を見せるようにもなりました。

私はずっと子供の頃のままのつもりでした。

落ちこぼれでみんなの足を引っ張ってて、まともに口も利けない出来損ないで生きてるだけで迷惑な存在。

ずっとそういうつもりで生きてきたんです。

だから一人でも耐えられた。辛くても頑張れた。それが当たり前だから。

違うんじゃないかなって…

私は正直自分のことを発達障害だと思ってます。素人判断ですが典型的な症状ですからね。

体力も運動神経も並以下で、幼少期の劣等感が人格に悪影響を及ぼしたのも間違いないでしょう。

支配的で過干渉な母親、威圧的で無関心な父親の間で無気力になっていったというのもわかります。

でもそんなの関係ないんじゃないかなって。

そんなのもうとっくに乗り越えちゃってるんじゃないかなって。

それでもまだそういう考えに囚われるのは、そういう過去に縋るのは…

自分の人生を生きることから逃げているから。

精神的な成長がもたらしたのはよりいっそうの惨めさでした。

夏が始まる頃、1つの出会いがありました。

私が動画投稿者になるきっかけですね。

ここでは多くを語りません。前に動画にしちゃいましたからね。

それから数か月の変遷はどうぞYoutubeで。

私は人生の意味を自身のチャンネルに託しました。

私生活には変化は無くとも、ネット上で誰かに認められるようになれば、誰かの心に残るようなことができれば。

私の人生にも何か意味があったんじゃないかと思えたからですね。

7月から院試勉強のため休みに入りました。

ホントはですね、大学院なんてどうでもいいんですよ。勉強も研究も将来も何の関心もない。

ただ変化を嫌っただけです。欲しかったのは後2年の猶予ですよ。

手に入りませんでしたね。

これまで私は無能なゴミクズだから勉強くらいできないといけないという強迫観念を原動力にしてきました。

それがもう無くなっちゃったんですね。

作風の変化に気づいて察している視聴者もいましたが、明らかに私の精神状態は好転してきています。

以前のように、道の真ん中を歩いたり、貰った物を食べたり、人に声をかけたりするだけで罪悪感を抱くような、そういう生き物ではなくなってきています。

人間になっちゃってたんですね。気づいたら。

いい加減私もちゃんと自分の人生を生きますね。

まともな就活はできる気がしません。

自分はこんなことを頑張ってきたとか、自分はこんな良い所があるとか、自分はこんなことをして行きたいとか…

もう嘘でも言えなそうなので。

男一人身一つで生きてく方法なんて幾らでもありますので悲観はしていません。

ただ私が何らかの夢や希望を持って大学に進んだと思ってる父母に何と言うか…

それを思うと気が滅入るだけです。

今書き記すことはここまでです。

まだ終わらせる気はありませんのでご安心を。



2022年9月17日土曜日

自分史2

こんなに長くなるとは思わなかったんだけどなぁ。

まぁここからはほぼ空白期間です。 


⑤中学校

この頃から、いや小学校の終わりくらいからかな。

死のうって思いました。

自分にも環境にも展望が無いし、死んだ方がいいなって。

でもまぁ、死ねませんでしたね。

小2くらいに死んだ方がいいんじゃないかって思ったときは、死への不安や恐れがあって留まりましたがね。

自分が死んだらみんな悲しむんじゃないかなって。

初めてそういう感情を持ちましたね。

家族じゃありませんよ。野球部のみんなです。

本当に良い人たちなんですよ。私には過ぎた友人たちでした。

私は劣等感を感じていましたが、向こうが私を下に見ている感じは全くしませんでした。

見下して然るべきです。

私はさんざん足を引っ張ってるし、性格も最悪です。

私は試合中も仲間がミスするのを願ってるし、何ならさっさと負けて試合数が減るのを願ってます。

自分の落ち度を減らすことしか頭にないんですよ。

それなのに応援されたり励まされたりしたら…

苦しくなっちゃうじゃないですか。

もし私が自殺したら彼らは悲しむ。責任を感じてしまうかもしれない。

彼らほど親しくなくても私には少なくない友人が居る。

クラスメート程度の関係でも自殺者が出たら悲しい気持ちになる人も居るだろう。

私は人のつながりを感じてそれを傷つけたらいけないものだと思って…

人生の目標を立てました。

人との関係を薄めていき、誰も悲しまないようになってから死のう。

その悲壮な決意は魅惑的なものでした。

いつか死ぬために生きていこうと決めたんです。

そうして私の心は穏やかになりました。

変化は緩やかなものでなければなりません。

私は中学でも野球部に進学しました。

中学から別の部活にすることも考えましたが、母にとっては進学後も野球を続けることは既定路線のように見えたのでそれに乗っかりました。

関係性はほとんど小学校から繰り越しでした。

ですが年を経て遊びの趣向が変わったこともあり、私の家に集まることもなくなりました。

私はそれを機に1人で過ごすようになりました。

本を読んだりゲームをしたり、パソコンでアニメを見たり。

アニチューブは当時は違法だと知りませんでした。ごめんなさい。

あの頃は、どんな感じだったかなぁ…

中学はかなり記憶が朧気です。辛かったという認識も無いですが記憶が飛んだということは辛かったんでしょう。

クラスではまぁそれなりに上手くやってた気がします。面子もそんなに変わりませんからね。

特別誰かと仲良くなったりはしませんでしたが、クラスメートにラノベ借りたり、余り物グループで修学旅行回ったり、ちゃんと孤立できてはいませんでしたね。

野球の腕は相変わらずでしたが母に怒られることは無くなった気がします。

兄の方に関心が向いたんでしょうね。

落ちこぼれることへの抵抗もなくなった頃ですが、同期や後輩が活躍している試合をベンチから眺めていた時に一度だけ涙を流した記憶があります。

心が完全に消えてたわけではなかったんですね。

兄について話しますか。

兄とは仲が良く小さい頃から一緒に居たような気もしますが、肝心な部分で何してたか記憶にないですね。

私が叩かれてる時に居たかなぁ…。

年は2個上で経歴は私と同じ、というか私が兄の経歴をなぞりました。

私が中1、兄が中3のとき野球部に同席していたはずですが…まあ覚えてないや。

変化があったのは兄が工業高校に進学してからですね。

少々やんちゃ、て言ってもごく普通の高校生がするようなことですよ。

コンタクトにして、髪をセットして、遊び歩いて帰りが遅くなって怒られてって感じ。

母は過干渉な人ですし父も世間体が悪くなることには怒る人です。

それで兄はその場では萎らしくするものの、シレッと同じことをする人です。

あぁ、兄は普通の人間なんだなって思いました。

私はその頃ほとんど自発的に喋りませんでした。

兄が私のことをどう思っていたのかは知りませんが、一時期古いプレステのゲームで一緒に遊んだのを覚えています。

中学の卒業式の日、私は白紙のアルバムを持って誰よりも早く帰りました。

ですが途中でクラスメートの1人に「じゃあな!」と手を振られました。

私は私が目標通りに生きられたのかよく覚えていません。


⑥高校

高校は地元の進学校に進みました。といっても自称進学校という奴です。

試験もあったはずですが学校の定期テストと同じ要領で超えましたね。

野球部の人も何人かは同じところに進みましたが、クラスも別れ多くは疎遠になりました。

入試時点で上から一桁の順位でしたが、最初の模試で校内1位でした。

中学の頃、テストでは親友が不動の1位で私が2位か3位かと言ったところで

「あいつは天才でお前は秀才。お前クラスなら頑張れば勝てる。」と誰かに言われましたね。

ムッとしましたがやっぱりそうだよなと思いました。

親友は地元から離れもっと上の高校に行ったので自動的に私が一番っていう認識でしたが、附属中からの進学組に勝ってるのでやっぱり凄かった…のかなぁ…?

会話が無かったからあんまりわかりませんね。

中学では自分の心に甘えがあったという自覚があったので、高校では強硬姿勢を取りました。

入学当初から一貫して単独行動。クラスメートが机を合わせて昼食を取っている中で、1人でさっさと食事を終えて勉強してました。

他の人の目にどう映っていたかは知りませんが嘲笑を受けるということは無かったと思います。

1年の間はほぼ1位だったためそういうキャラなのだと認識されてたのかな?

部活は全員強制加入でしたので適当に見繕いました。

といっても野球はもう辞めました。軟式から硬式に変わることもありキリのいいタイミングですしね。

やりたいことは何も思いつきませんでしたが第二体育館にサンドバッグがぶら下がっているのが目に付きました。

空手部の練習スペースにあるため、空手部に入れば自由に使えるそうです。

その高校の空手部ってのが緩い感じでしてね、人数も練習も少なくていい感じだなぁと思って入りました。

その頃私は身長も170を超え、中学から毎日していた筋トレの成果で体格も良くなっていたので苦労することはありませんでした。

毎日サンドバッグを殴ったり蹴ったりして少しだけ胸の痛みが消えた気がしました。

こう書いたら完璧なように見えますね。

綻びも幾つかあったのでそれもちゃんと書きましょう。

まずはクラスでのこと。私は最低限の関わりを志していましたが一切誰とも会話しなかったわけではありませんでした。

まぁ相手から話しかけられたからですね。

どこのクラスにも誰にでも優しい奴ってのはいるもんで私のクラスには男女一人ずつくらいいました。

そういうクラスは全体が明るくなっちゃうので必然的に私もちょっとだけ日なたに出ちゃったわけですね。

孤立を深められないことに嬉しいような苦しいような複雑な感情を抱きました。

後は部活関連。

野球部と比べたら緩すぎて本当に同じ部活動なのかって感じでしたね。

全員揃うことは稀ですしほぼ自主練みたいな日も多かったです。

なんだかんだみんなで仲良くやってましたね。私はサンドバッグと戯れてることが多かったですが。

空手部の練習場所である第二体育館は空手部、剣道部、バドミントン部、卓球部に4分割されてました。あとギャラリーにダンス同好会とテコンドー。

バドミントン部に気になる子ができました。

幼稚園と小学校が一緒で、附属中に進学して高校で再会。ロマンチックですね。

小学校高学年で割と話してたような気がしますが、あの頃私はギリギリでしたのであまり思い出せません。

あの頃と同じショートヘアで肌が綺麗で大きな目が愛らしい…気持ち悪いな私。

今思い返すとショートヘア好き過ぎですね私。そういう性癖だったのか。

少しだけ話して、それから廊下ですれ違うたびお辞儀してくれるようになりました。

私は彼女ともっと仲良くなりたい気持ちと人生の目標を遂行する決意の板挟みに遭い、非常に苦しみましたね。

もっとも彼女は1年で部を辞めちゃって疎遠になりましたがね。

家は荒れてたか、静かだったか、どうだったかな?

私は母に対しては面従腹背、というよりぞんざいな態度を取りました。

とりあえずハイハイ言っとけば勝手に納得するんだろうなぁという気で、それっぽいこと並べてました。ほぼ覚えてないです。

兄は就職が決まり来年から家を出ることになりました。

確かこの頃だったかな?兄がデュエマをまた始めて私も誘ったんですよね。

高校でなぜか小学校の頃やってたカードゲームへの熱が再燃するって現象。

それが兄の高校で起こったようですね。ちなみに私の高校でも後にちょこっと起こりました。

熱はすぐ醒めて兄はカードを置いて働きに行きましたが、私は再びカードを集めるようになりました。

自転車で20分程度でカードショップに行けたので、そこで数時間ストレージを漁って1000円程度の紙束を買って帰る。

これが私の数少ない趣味になりました。

1年目はこんなもんかな。

いや、最後に家族旅行に行きましたね。

確かUSJだかに行ったんでしたかな?

母が家族4人で何かする最後の機会だからと言って強く推し進めたのを覚えています。

父は癇癪持ちだから一緒に旅行するのは気が重かったですが、問題なく行われたんじゃなかったかな?

まぁあまり楽しかったという思い出もないですが…

2年目に移りましょう。

私の心は非常に凪いでいましたね。

大きな喜びも苦しみもないといったところです。

1年目は気を張って平日3時間休日6時間くらい勉強していましたが、だんだん勉強時間は減っていきました。

進学クラスに進んだことでメンバーもちょっと変わり、グループワークの時は協力し、それ以外の時は各自行動の気風がありました。

テストの順位もちょっと落ち、といっても一桁ですが、自分の中でまぁこんなものでいいかという気持ちが生まれました。

平日は授業を受けて、部活して、勉強して、スマホいじって眠る。

休日はカードショップに行って時間を潰す。

満ち足りた日々でした。

変化があったのは6月くらいでしたかね。

空手部の前部長から指名されて、新しい部長になったんですよ。

これが…ちょっと…まぁ面倒くさかった。

私はできればずっと自主練だけしてたい人なので場を仕切るってのは苦手なんですよね。

結果的になんだかんだ理由をつけて休んだり、特に理由も無く居なくなったりしました。

元々緩い部活ではありましたが、もうグダグダでしたね。申し訳ない。

でもその時に気づいたことがありました。

父が怒声を上げるようになったのがいつ頃だったかは覚えていません。小さい頃からそうではなかったと思うんですが…

いつからか些細なことで悪態を吐き、怒声を上げるようになりました。

父の部屋から聞こえてくる怒鳴り声は我が家では聞き流されていましたが、私はかなり神経に効いてました。

毎日何をあんなに苛立ってるんだろうなぁと思ってたんですが、部長をやり始めてわかりました。

私も同じようになったからですね。

ふとした瞬間に父親のような怒声が出たときはびっくりしました。

そうか、やりたくもないことをやってる人間はこうなるのかって…

父のことをちょっとだけわかった気がしました。

思えば父はあれほど苛立っていても私に直接罵声を浴びせたり、まして暴力を振るうことはありませんでした。

それから私は少し将来について考えるようになりました。

目標を達成するにはどこかのタイミングで失踪する必要があります。

その時期について考えるようになりました。

父とは会話したことが無いので実の所何を考えているのかは知らないのですが、どうやら母の言葉で拾えた限りでは進学を望んでいるようでした。

父がやりたくもない仕事とやりたくもない子育てをしているのは、世間体のためであると私は考えました。

恩返しなんて言い出すような恩は受けていないのですが、義理を立てようと思いました。

早い話なるべく良い大学名を取って来てやろうってことです。

1年の時は大学なんか知らないので志望大学は東大とかにしてましたが、自分の学力と相談した結果、東北大を狙いにしました。

志望大学を定めたからと言って猛勉強を始めるわけではありませんが、勉強会に出たりオープンキャンパスに行ったり準備は進めました。

母は…何言ってたか覚えてない、というよりすっかり聞き流す癖がついちゃって覚えられないんですよね。

でも自分の子が他の子より上ってことに喜ぶ人だってのは知ってます。

部長としての仕事はまぁやったりやらなかったりで引退まで乗り切りました。

大会とかの勝敗は…あんまり関心が無くて何とも…て感じですね。

2年はこんなもんか。

あぁ修学旅行もありましたね。

4泊5日は長過ぎだろと進学クラスでは不平が多かったかな?

流れるように余り物グループが結成されそのまま乗り切りましたね。

でも自由行動が許されたUSJではちゃんと一人で回りましたよ。

人生の目標に従って修行するつもりでやりましたが、思いのほか楽しかったですね。

恐るべしアミューズメントパーク。

そっからは受験勉強の日々ですね。

学校に6時くらいまで拘束されて講習を受けてたんだったかな?

カードショップ通いも封印し勉強に励んでましたが、秋が終わる頃には勉強に飽きて解禁しちゃいましたね。

あまり追い込まなくても1年からコツコツやって来た甲斐もあってセンターも8割。

滑り止めも受けずに東北大1本で大学受験を終えましたね。

両親は…たぶん喜んでたと思う。うん。

私はこれからどうしようかと悩んでましたね。後はもういつ飛ぶかだけですので。

3月くらいでしたかな?家を出る前。

私と母、親友とその母の4人で食事をしました。

お互い志望校に受かって良かったねって感じですね。

久々に会うと身長も同じくらいで…

もうあまり劣等感は感じませんでしたが、なぜか少し寂しさを感じました。

合格の報告は学校にも行きましたね。

先生方に挨拶回りして帰る時、あの子に会いました。

幼馴染でショートヘアのあの子です。

進学先を聞かれて東北大だと答えて凄いねと言われて…

あの子は横浜の大学に行くって言ってたかな?

それで終わり連絡先も知らない。

私は何がしたかったんだっけ…

そう思い始めたのはその頃でしたかね。


記憶がまだ鮮明だからか長くなっちゃいました。

一度切ります。


自分史1

自分語りの極みたいなもんですね。

就活で聞かれる所もあるとか…。

ゾッとしますね。馬鹿正直に答えたらお祈り確実ですわ。

就活らしい就活はしないつもりですが一応整理しておきます。


①幼稚園

たぶん記憶が残ってるのはこの頃からかな…。

一番古い記憶は確か給食を残して居残りさせられてた奴ですね。

マヨネーズだかドレッシングだかでひたひたになったサラダ。

あれが苦手でね。食べるまで遊んじゃいけませんて言われたから、昼休み中そいつとにらめっこしてましたね。

結局食べたんだっけか。食べなかったんだっけか。

カレーのニンジンを残して同じようにストライキしてた女の子が居たのを覚えてます。

なぜお互いがお互いの苦手なものを食べるという解決策が浮かばないのか?

子供特有の意固地さと至らなさを感じるエピソードですね。

あの頃はどうだっけか…?

孤立してたような記憶はないような気がします。

遊び回るより絵本を読んだり一人遊びしたりする方が好きな子ではありましたが、それで仲間外れにされたりとかは無かったような…

この頃はまだまともだったんですね。

そっちの方で問題がないなら親の方も問題はありませんでした。

まだ母を負担に感じることもなく、父の怒声を聞くこともなかった頃。

一番良かった頃の記憶が曖昧なのは残念ですね。


②小学校低学年

ここから私が問題を起こし始めました。

コミュニケーション能力の不足による孤立と、それによる母の変調。

何もしなかっただけなんですがね。

学校行って、本読んで、宿題やって、特に焦りも不安も無かったと思います。

でも他の子は休み時間や放課後に友達と遊んだり習い事したりしてるわけで…

私が他の子と違うってことを先に気にし始めたのは母でしたね。

今日は何したの?誰と遊んだの?って感じで…

子供心にああ、この人はそういうのが欲しいんだなって感じたのを覚えています。

それでまあ私も頑張ろうとしたんですが…

いかんせんやり方がわからないしあんまり他人に興味も無いしで上手く行かなかった気がします。

小2くらいだったかな。初めて家に人を呼んで…

母は喜んでた、ていうか安心してたのかな。

何したかもよく覚えてないですがその一回きりでした。

スイミングスクールに入れられたのはいつ頃だったかな?

結構長く入ってた気がしますが、入学当初は入ってなくて野球部に入る前には辞めたはずなんですよね。

じゃあ1年くらいしかやってないのかな?

泳ぐのは好きじゃありませんでしたね。寒いし疲れるし。

顔を水につけて息を止める訓練あるじゃないですか。

あれで顔を離すのが早いってひどくコーチに怒られて…

泣きながら辞めさせてくれって懇願した記憶があります。

ちゃんと嫌なことは嫌だと言えるだけあの頃の方が立派だったんですね。

他には何かあるかな?

兄が1人いるんですが、兄や兄の友達と遊んでもらっていたか…

あまり記憶がありませんね。まだ自我が芽生えてなかったんでしょうね。

でもただ何となく、何となくなんですが…

自分は死んだ方がいいんじゃないかって思いましたね。

自分が今後生きてても普通になることはなくて、生きてても周囲の迷惑になるだけなんじゃないかって…

そう思ったのを覚えてます。

まあでも死ななかったわけですが。

たとえ私が死ぬべき人間であったとしても実際に死ぬ気は無いのなら、そう思い悩むことは無意味である。

思想の起こりって奴ですね。

自分の存在を肯定する最初の理屈でした。


③小学校中学年

野球部への入部、ここがターニングポイントですね。

良い方に変わったのか悪い方に変わったのかは今でも判断がつきません。

新入部員が9人、一チーム組めると盛り上がってたのを覚えてます。

この頃はみんな大きな差も無くて良かったですね。

練習にもそこまで後れを取ってはいなかったと思います。

ですがまあ子供の部活動なんてものは部活自体は二の次、重要なのはそこから形成される人間関係ですよ。

子同士の付き合い、親同士の付き合い、そういうものが発生した時期です。

私も自分がどういうことを求められて入れられたのか自覚してましたから、いろいろ頑張ってた気がします。

その大きな支えの一つがカードゲームですね。

デュエルマスターズを始めた正確な時期は憶えていません。

確か不死鳥編ですからWikiを見ると2007年ってことで小2からカード自体は持ってたのかな?

コミュニケーション能力を必要としないコミュニケーションツール。今思うとこんなに素晴らしい遊びは無いですね。

ジャンクデッキを片手に交友関係を広げた時期でした。顔も知らない友達と遊ぶなんてことは後にも先にも無いことでしたね。

「エンドレスオールデリート」ていう構築済みデッキが発売されたのが2008年の7月。

てことでその辺りから他者との関わりができたのかな?

更なる転機はバトルスピリッツの発売ですね。

パックを剝いた余りを野球部の友達に貰って、それでのめり込みました。

私はキラキラしたものが好きで、カードは眺めるのも好きなんですがね。

バトルスピリッツのカードは宝石をモチーフにした妖しい光り方をしていて、私の心を強くつかみました。

それでデュエマからバトスピに移行しました。

カードゲームの種類が変わることで属する集団が変わるってのは、今思うと不思議なものですね。

野球部の中で新たにバトスピを始めた人たちと私はよく遊ぶようになりました。

彼らは素行が良く成績も優秀で母も鼻高々でしたね。

ここまでが小3、ここからが小4。

ついでなんで初恋についてでも話しときますか。

正確な時期は憶えてないですが小3か小4だったと思います。

ショートヘアーの可愛い子だったのは憶えてるんですが顔を思い出せませんね。

歯ブラシ用のコップを差し出されて「使う?」と言われてドキドキしたことを覚えてます。

どんなシチュエーションだよ…?私の記憶違いかもしれません。

好きだなぁって思った矢先に転校しちゃって泣きましたね。

なんかもう一瞬で終わった感覚で季節も思い出せません。

話を戻しましょう。

小4になってから野球部の同学年に新入部員が来ました。

これで私の学年は10人。チームを作ると1人余りますね。

私はまだその意味には気づいていませんでした。

バトスピ関連の友人で特に仲の良い相手ができたのがその時期ですね。

いわゆる親友という奴です。

母親同士の関係も良好でインフルエンザで休校になった頃、我が家に連日来ていたのを覚えています。ホントは良くないんですけどね。

バトスピとか、スマブラとか…。私の家に友人たちで集まってよく遊んでいました。

あの頃はまだ…私は屈託なく笑っていたんでしたっけ?

悪い部分のインパクトが強過ぎて時系列が不確かですね。

私の自尊心が破壊されたのは高学年になってからでしたかな?

まぁそういうことにしておきましょう。

この頃が黄金期でした。


④小学校高学年

私を追い詰めたのは3つ。

流れを汲んだ物から始めましょう。

一つ目に、単純に能力不足が目立ってきました。

身体能力と運動神経、後はセンス不足です。こういう言い方は今でも嫌いですが。

打ってダメ、走ってダメ、守ってダメという3拍子。

私は1年遅れて入ってきた人や後輩たちとレギュラーを競り合うようになりました。

私は私が日頃仲良くしている友人たちと自分に大きな隔たりがあることを感じずにはいられませんでした。

成績の方も…私も優秀な部類ではあったのですがね。他の人も優秀だったので優越感を得られませんでした。

特に親友は体も大きく頭も良く、おまけに性格も良かったため、私は絶えず劣等感に苛まれるようになりました。

もちろんそれを表には出しませんでしたが…いや出していなかったつもりですが…

私は彼らと少し距離を置くようになりましたね。

といっても部活では離れられませんし、変わらず家で遊んだりもしていたんですが。

ちょっとクラスで浮いてる人たちと絡むようになりました。いや浮いてるというかグレてるというか、いやでも非行に走ってるわけではないというか…

小3の頃カエルやトンボ潰したり、アクションリプレイでDS改造してた人たちですね。

まぁどこか欠けた部分を感じる人たちでした。なんか苗字も途中で変わってたし。

でも一緒にいると少し心が安らぐ気もしました。私も欠けてるんでしょうね。

次に行きましょう。

二つ目は帰りの会のスピーチです。

日直は朝の会でサイコロを振り、スピーチの題材を決める。

そして帰りの会でクラスみんなの前で題材に沿って1分間話す。

私はただこれだけのことができない人間がいることを証明しました。

私は自分がどう思ったのか、どうしたいのかを話せません。

なぜかは知らない、というか脳に障害があるんだと思います。

自分の感情を他者に伝達する、共感や理解を得る、といったものがどういうことなのかわからない。方法や意義を知らない。

みんなが当たり前のようにできることが自分にはできないことを自覚しました。

地獄でしたね。今思い返しても。

教壇の上で立ち尽くす私、苛立つクラスメート、まだ30秒だと告げる女教師。

私はあの時に感じた羞恥と自責の念を生涯忘れることはないでしょう。

私がパターン構文の使い方を習得したのはその頃です。

「私の友人」というテーマであれば「私の友達の~は~をするのが好きです。昨日も一緒に~をしました。~するのは~でとても楽しいです。」のように定型文を作成し、穴埋め式に会話を行う。

人が無意識に行うことができないのであればそれらを繰り返し意識的に行い、いずれ無意識に行えるようにする。

サンプルを集め分析し、モデルケースを出力する。学習型AIみたいな挙動ですね。

最近になってツイッターで同じようなことしてたって人見かけて感心しましたね。

人見知りじゃない方のコミュ障だとみんな通る道なのかな?

これは小学生時代のうちに実を結んだかは覚えてません。私は人間なので負荷がかかり過ぎると記憶が飛ぶんですよね。

ですが今現在はかなりの水準で行えるようになったと自負しています。まあ面接の時くらいしか使いませんが…。

最後です。

まあ、母親ですよね。

私と他の子との差が明らかになるにつれ、母はおかしくなっていきました。

何が始まりだったかな?確かいつも通り全打席三振してきた日だったかな?

母は他の子は素振りとか自主練してるけどあなたはしないの?って聞いて…

私は疲れてたし若干不貞腐れてもいたのでしないと言いました。

叩かれましたね。叩いて、叫んで、狂いました。

子供の私の目には狂ったという表現が適切でしたね。

私は何が何だかよくわからないまま素振りをさせられました。

終わったら特に何事も無くお風呂に入ってご飯食べて寝ました。

母もわかりませんが私もわかりませんね。

この奇妙なやり取りはその後も続きました。

基本的に不定期でしたが試合が終わった後は確定で行われました。

私が試合中下手を打つことで母は恥をかいたんでしょうね。観戦中の保護者の間でどういうやり取りがあったのかは知りませんが。

今振り返って興味深いのが私が母に対して反感を抱かなかった点ですね。

反抗することもないし反論することもない。ただ涙を流して翌日にはケロッとしている。

一度だけ私は家庭のことについて口を滑らせたことがあります。試合があると母に叩かれるから嫌だと。

母が嫌いではなく試合が嫌という感覚なんですね。

客観的に見られる今だと不思議に思います。子供の感性って奴ですね。

母の行動は次第にエスカレートしていきました。

といってもやることはいつも変わりませんが、頻度が増えました。

試合が無くても毎日のように怒られるようになり、その理由も私の生活態度だったり成績だったりと多岐にわたるようになりました。

あの頃は私もかなりキツかったですね。

苦痛から解放される時間が睡眠と読書中だけでした。自分が無くなる瞬間だけが安らぎだという認識を持ったのもその頃ですね。

友達が遊びに来てる間はニコニコしていても二人きりになったら気が狂ったように怒り出す。

乱高下する母の情緒と自分自身の情緒に精神が擦り減っていくのを感じました。

私はそのうち、今の私という人格からは離れた存在になっていきました。

自分でもなぜそうするのかわからない。でもそうしなければならないという意識が芽生え始めました。

私はある日、隣のクラスで起こったいじめについて関わった者は手を上げろと言われたとき、気づいたら挙手していました。別に関わってないのに。

それで家に帰って1人でゲームしてたんですよね。そしたら担任から電話を受けた母親が当たり前ですが怒りだしました。

私は怒られながら自分が何を知りたかったのか気づきました。

母はその子がどれだけ苦しかったかみたいな情に訴えかける言葉を捲し立てるだけで、本来最初に聞かなければならないこと…

それが事実なのか、なぜそんなことをしたのかってのを聞かなかったんですよね。

ああこの人は私に色々言ってくるけど、私に関心は無いんだなって。

そうわかってからは何も感じなくなりました。

母のことはもうこれでいいか。

ついでですし父親のことも話しますか。

といってもほとんど言葉をかけられたこともありません。

「毎日ため息ばっかりつきやがって辛気臭い。」

この一言だけ覚えてます。

私はあまり泣きも笑いもしなくなりました。


長過ぎだな後編に続く!!


筆始め

いつも帰省中は色々ブログを書き進めてましたが今年は何にも書いてません。なので筆始めです。 昔のカードを引っ張り出して遊んでました。あと普通にダラダラしてた。 そのまま休み気分を引きずってモチベが上がりませんでしたが一応動画を一本作れました。日常系小ネタ集ていう5分くらいの軽いギャ...